最後の短冊
―1―
俺はふらりと家を出た。行く当てはない。
手には雪が残した走り書きのようなメモ。
『出かけます。朝ごはん、食べてね』
出かけます、だって?
昨夜何時に帰宅したかもわからない。
それなのに、出かけます?
他に書くことがあるだろうと思う。
今日は特別な日なのに。
一緒に祝いたい、とか嬉しがらせておいてそれはない。
かなり無理なスケジュール調整をした。やっとの思いでこの日は家に居られるようにしたのに。雪にはそれがわかっているんだろうか。
「あなたが家にいないと寂しいの」
たまに睦言でしおらしくそんなことを口にするけど。
それを真に受けて「ごめん」と心の中でいつも詫びていたけど。
あれは嘘だ。嘘に違いない。
じゃなければ、最近の雪の行動は全くもって理解できない。
彼女はただでさえ忙しい。
連邦政府の外務省に出向して、文字通り、世界中飛び回っている。
寂しいとか言うが、自分だってほとんど家にはいないだろう。
彼女の能力を、家庭なんて枠のなかに閉じ込めちゃいけないのはわかっている。
十分理解を示しているつもりだ。
だが、仕事以外に何でも引き受けてくる、あれはどうにかならないのか。
新型の全方位レーダーの開発?
そんなチームに入って、プライベートな時間を削る必要がどこにある?
さらには中国語の習得とか。
既に数か国語を操れる彼女に、さらに中国語が装備されたらどうなるんだ。
主にヨーロッパ方面だけだった仕事が、中国の分も入ってくることになるんじゃないのか。
そんなことになったら、彼女の足はますます我が家から遠のく。
つまり。
俺との生活はどうでもいいってことなんだ。
腹が立つ。
俺はこんなにも雪を必要としているのに。
雪のいない家は嫌なんだ。
一分だって居たくない。
俺は住宅街の中にポツンと設置されている小さな児童公園に入っていった。
ちょうどいい。公園には誰もいない。
ベンチに腰掛けようと歩を向けた時。
突然足元が空っぽになって、体が宙に浮いた。
次には重力によって落下が始まる。
マジかよ。
俺は抵抗もできずに落ちていく。
一体どこまで行くんだ?
急に恐怖が襲ってくる。
俺はぎゅっと目をつぶった。
―2―
落下が止まった。
おそるおそる目を開けると、俺はなぜかベンチに腰かけていた。
何だったんだ?今のは。
自分の体を見回すが、何の異常もない。
どこも打ち付けていないし、けがもしていない。
不思議に思いながら辺りを見回す。
さっきの公園ではない。
この木々の香り。
ここは地下都市の中の公園なんかじゃない。
ああ。俺はこの場所を知っている。
しばらくぼんやりと風景を見ていた。
池がある。
池の周囲には鬱蒼とした森。
鳴き声がした。見ると水辺に鳥がいる。
あれはヤマシギだ。
そしてここは・・・
お不動池の緑地だ!
子どもの頃、自転車を漕いで、友だちとよく遊びに来た場所。
あ、誰かいる。
小さい子。
金色のショートヘアが柔らかく風に揺れている。
ショートパンツを履いていて、一見男の子のようではあるが。
子ども時代に出会った雪を男の子だと勘違いした前科があるからな。
俺は慎重になって、その子どもの姿をよく見る。
そして思った。
子どもの頃出会った雪もあんな感じだった。
というか、雪じゃないのか!あの子。
俺はベンチから立ち上がり、ゆっくりとその子の方に歩いて行った。
雪はしゃがみ込んでじっと池を見ていた。
ものすごく集中し、ものすごく真剣な顔をして。
何分もずっとそのままで微動だにしない。
あまりにも動かないので、俺はとうとう雪に声をかけた。
「何してるの?」
雪は池を見たまま答えない。
聞こえなかったのかな。
俺は少し大きな声でもう一度言った。
「何してるの?」
「しーずかにっ!」
雪はこちらを見もしないで言った。よく聞く叱り口調。まんま今の雪の雰囲気だ。
この頃からこんなだったか。
俺はやれやれと首を振った。
しばらく雪の斜め後ろに腰かけていた。
雪はとうとう諦めたのだろう。
ため息をついて、その場に座り込んだ。
「何してたの?」
今度は振り向いて雪が俺を見た。
しばらくじーっと見ている。
「おにいちゃんがきたから、かっぱさんにげちゃった」
「へ?河童?」
「ゆき、かっぱさんにあいたくて、まっていたの」
「河童?」
俺は大笑いした。河童に会いたいって。
雪ってこんなぶっ飛んだ子どもだったのか。
しばらく笑い転げてから見ると、雪が涙ぐんでいた。
「どうしてわらうの?」
「だってさ、河童なんて・・・」
いないんだよ、と言おうとして止めた。
雪があまりにも真剣な顔をしていたから。言ってはいけないような気持ちになった。
「おじいちゃまが、ここでみたことあるって。かっぱさんはいいこのところにしか、でてこないんだって。ゆきはいいこだから、ここでまっていたの」
「河童に会ってどうするつもりだったの?」
俺は笑うのを止めて、真顔で雪に尋ねた。
「いいこにしていたら、パパがすぐにむかえにくるっていったの。でも、パパずっとこないの。ゆきがいいこじゃないから?かっぱさんにきこうとおもったの」
何となく事情が呑み込めた。
雪のお父さんは外務関係の仕事をしていたと聞く。
どこかに赴任して、現地で家族を迎え入れる準備でもしているんだろう。
雪は祖父のところに一時的に預けられているんじゃないか。
「お父さんに会いたいのか?」
「うん」
「お父さんは君のことを忘れているわけじゃないよ。いつも大事に思ってる、絶対に。だけど、まだ君を迎えに来られない事情があるんだ。もう少し待ってあげて」
「ゆき、いいこじゃないのかな。だからかっぱさんもでてこないの?」
雪の目から涙がこぼれた。
俺は頭をそっと撫でながら言った。
「河童はいい子のところにしか出てこない。でもね、いい子だからと言って、全員が河童に会えるとは限らないんだ。わかるかな?」
雪はしばらく考え込んでいた。
「かっぱさんはどうやってえらんでいるの?このこのところにでていこうって、どうやってきめているの?」
「河童は気まぐれなんだよ。気が向いたら出て来るし、その気がなければ出てこない。会えるかどうかは運なんだ。会えなかったからと言って、君が悪い子だとか、そういうことはないんだよ」
雪はうん、と頷いた。
気持ちがおさまったようだった。

イラストby牡丹
何かが飛んできた。
俺は雪と一緒に飛んできたものに注目する。
ギンヤンマだった。
綺麗な水色が煌めいて、光の筋を残す。
雪はそばにあった虫網を持って立ち上がる。
そして、ギンヤンマを追って虫網を振り回し始めた。
幼い。
そんなことじゃギンヤンマを捕まえることはできない。
でも一生懸命な姿が不意に愛おしく思えた。
そうだ。雪はこんな子だ。
いつも一生懸命。
そんな雪を好きになったんじゃないか、俺は。
思わず笑みが浮かんでくる。
「貸してごらん」
さっぱり捕まえられなくて、もう無理だと思っていたのだろう。
雪は虫網をあっさりと俺に手渡した。
ギンヤンマを捕まえるにはコツがある。
後から追っても無理だ。かと言って前からいっても、巧妙に網をかわしていく。
まずは観察して、縄張りの範囲を見定める。
縄張りの外れまで行くと、ギンヤンマはそこで一瞬ホバーリングし、向きを変える。
その一瞬の隙がチャンスだ。
いともたやすくギンヤンマを捕獲した俺に、雪は心酔したような目を向ける。
「おにいちゃん、すごい」
翅をつかんでギンヤンマを持ち、雪に見せてやる。
雪は目をキラキラさせて、ギンヤンマに見入った。
「これ、どうする?虫かごに入れる?」
雪は首を横に振った。
「とんでいるときがいちばんきれい。だから、にがしてあげて」
「わかった」
俺はギンヤンマを放す。
自由になったギンヤンマは、池の方へと飛んでいった。
「カメさん」
今度は池の石の上で甲羅干しをしている亀を見つけたようだ。
全く好奇心の塊のような子どもだ。
池にせり出し、ウッドデッキが設置されている。デッキには、水上で憩えるように、ベンチも置いてある。
雪はそのデッキの端まで走って行って、亀に手を伸ばした。
「落ちるぞ」
何を隠そう、俺も同じことをやって落ちたことがある。
水深は大してない。
だが。
雪がバランスを崩すのが見えた。
あのままだと頭から落ちる。
俺は駆け寄って雪を抱き上げた。
代わりに俺がバランスを崩す。
雪を抱いたまま。
ドッボーン。
俺は見事に池に落ちた。幸いなことに足から。
水しぶきを浴びる。
膝まで水につかったが、どうということはない。
雪も俺も無事だ。
咄嗟にしがみついてきた小さな雪を、俺は柔らかく抱きしめる。
しっくりくる感触。
じわじわと満ちる感動が体からあふれ出していきそうだった。
「雪ーっ」
名前を呼ぶ声がする。
振り返ると、緑地の入り口に初老の男性が立っているのが見えた。
「おじいちゃま」
腕の中で雪が言う。
俺は雪をデッキに降ろしてやった。
「おじいちゃまー」
まっしぐらに駆けて行った雪を抱き上げた男性が、ゆっくりと歩いてくる。
自力でウッドデッキによじ登り足元を見ると、デニムの裾とスニーカーがびしょ濡れだった。
「申し訳ない。孫を助けてもらいましたか?」
雪の祖父とおぼしきその男性は、雪を抱いたまま、丁寧に頭を下げた。
「ありがとう。おかげで孫は無事だったようだ。感謝します」
続けて男性は孫娘をやんわりと叱る。
「雪、ひとりでここに来てはいけないと言ったはずだよ」
「ごめんなさい、おじいちゃま」
雪は祖父の肩に頬をつけて甘えている。
そんな雪を大事そうに見つめる祖父の目が印象的だった。
「思い込んだらわき目もふらず飛び込んでいくのが厄介でね」
祖父は苦笑しながら俺を見る。
雪に似た綺麗な瞳の男性だった。
「根は悪い子じゃない。可愛がってくれたら嬉しい」
そう言うと、祖父は雪を抱きかかえてゆっくりと歩き、帰っていった。
「可愛がってくれたら?」
どういうことだ?訝しんでいると、雪が駆け戻ってきた。
「おにいちゃん、ごめんね」
雪は俺の足元を見た。
「ゆきがおとなだったら、おにいちゃんのデニムもくつもあらってあげるのに」
それだけ言うと雪は走って行った。
出口で待っている男性に「おじいちゃま」と飛びつく。
そしてふたりは手をつなぎ、去って行った。
あんな祖父がいたんだ。
雪を慈しみ、愛している家族に会えて、俺は嬉しい。
雪を大切にしよう。そう思う。
姿が見えなくなるまで、俺はふたりを見送った。
―3―
目を開けた。
はっと起き上がって辺りを見回す。
ここは?
お不動池の緑地ではなかった。
さっきの人けのない児童公園。
その一角に設置されたベンチの上で、俺は眠っていたようだった。
「夢、だったのか」
ひとりごちる。
夢にしては妙に生々しく感じられるが。
俺は足元を見た。
デニムの裾とスニーカーが濡れていた。
「!」
やはり俺は池に落ちたのだろうか。
家に戻ると、雪がいた。
「どこに行っていたの?」
聞きながら、俺の足元を見る。
「どうしたの?濡れてるじゃない」
「いや、ちょっと」
「脱いで。洗ってあげるから。ついでにお風呂に入ったら?」
俺は雪の言うがままだ。
さっきものすごく不機嫌になって家を出たことなんか、どうでもよくなっていた。
風呂から出て、俺は寝室に入った。
服を取り出すついでに、一年前に俺たちの宝物になった短冊を捜す。
あった。雪が用意した綺麗な小箱の中。
今日は七夕だ。ちょうどいい。
これを持ち出して、雪と語り合おう。
短冊を見る。
小さな雪のつたない字。
これを書いたときも、彼女は一生懸命だった。
あのとき俺に向けてくれた思いも真っ直ぐだったんだろう。
「思い込んだらわき目もふらず飛び込んでいくのが厄介でね」
男性の言葉がよみがえる。
考えてみれば、雪にロックオンされたのが俺でよかった。
彼女の思いが他の男に向いていて、それを指をくわえて眺めているしかない人生じゃなくて本当によかった。
短冊を持って寝室を出た。
雪を捜す。姿が見えない。
と思ったら、ベランダにいるのが見えた。
短冊を居間のテーブルに置いて、俺もベランダに行く。
雪はタライに水を張って、俺のスニーカーを洗っていた。
雪の頭上には、洗濯したてのデニムが干されていた。
「ごめん。ありがとう」
雪は手を動かしながら俺を見上げた。
「どうしたの?すごく水を吸っていたよ、これ」
「ああ、池に落ちた」
「池?どこの?」
雪は目を見開く。
俺は笑ってごまかす。
「まさか、貯水池まで行ったの?ずいぶん遠くまで行ったのね」
雪が勝手に合点してくれたので、そのままにしておいた。
雪は洗い終えたスニーカーを竿にひっかける。あとは乾くのを待つだけだ。
「悪いね、忙しいのに」
雪は柔らかく笑う。
「いいのよ。私はもう大人だから。好きな人のデニムも靴も洗ってあげられるの」
「え?」
どこかで聞いたようなセリフだ。
「私ね、夢だったの。好きな人の洋服や靴を洗ってあげるのが」
雪はタライを片づけて、部屋に入っていった。
食卓には昼食が並んでいる。
雪はキッチンとテーブルをせわしなく行き来している。
コンロには大きなセイロが湯気を立てていた。
テーブルを見ると、やけに品数が多い。
「どうしたの、これ」
雪はふふっと笑った。
「だってお誕生日でしょ?あなたの」
「あ、そういうこと」
よく見ると、点心が何種類も並んでいる。
その中に、大根餅があった。
「お、大根餅」
「おばあちゃんが作ってくれる大根餅が好きだったって言ってたでしょ?もう一度食べたいって。だからがんばったの」
「え?」
「おばあちゃんが中華街から材料を買ってきて、って言ってたから、中華ソーセージか干しエビがミソだと思ったの。それで名人さんのところに習いに行こうと思って」
雪はパタパタと走ってセイロのふたを開け、翡翠ギョーザを取り出す。
続いて、海鮮っぽいシューマイを入れてふたをした。
「これも、皮から全部手作りしたのよ」
雪は綺麗な翡翠色のギョーザを食卓に運んだ。
「教えていただいたラオナイナイが中国語しか話せない方だったの。だから、ついでだし、中国語を学んで、料理にもチャレンジよ」
「そうだったのか。言ってくれればよかったのに」
俺は少し申し訳ない気持ちになった。
雪は俺を大事にしていないだなんて拗ねて、子どもみたいじゃないか。恥ずかしい。
「サプライズ、したかったの。だって、去年の私の誕生日、嬉しかったんだもの」
サプライズ?雪の誕生日?
思い出して、思わず赤面した。
ちょっと俺らしからぬことをやってしまって。
でも雪がすごく喜んで、その日はもう・・・
素晴らしく従順に俺の言うことを聞いて、ただひたすら可愛かったあの夜の雪を思い出す。
やばい。まだ真昼間だ。
「これだけ作るのに、ここのキッチンじゃ足りなくて。ラオナイナイの厨房をお借りしたの。今度、一緒に行きましょ?」
「わかった。でもまずは雪が作ってくれたものをいただかないと」
「そうね、お昼にしましょう」
大根餅。
これが一番おいしかった。
おばあちゃんが作ってくれたものと、本当によく似た味だった。
簡単に説明しただけなのに。
雪は俺が何の気なしに話したことも、よく覚えてくれている。
それがわかったことが、一番嬉しかったかもしれない。
「本当はね、旧正月に作るものなんですって。ラオナイナイが、今頃大根餅?っておっしゃったけど、お願いしたの。お誕生日のプレゼントにしたいからって」
「そうか。ありがとう」
「おばあちゃんの味とは少し違うよね?」
「うん、まあ」
「これから何度も作って我が家の味を作っていくわね」
「ありがとう。雪」
俺は反省した。
今日23歳になった。
雪の大らかさに包まれているだけで、俺は雪に何も返していないんじゃないか。
ただ甘えて、拗ねて。その繰り返しだ。
だから。
俺は短冊に書く。これは本来、子どもがすることだから、今年書くのが人生最後の短冊だ。
「大人になる」
それを持って俺はエレベーターを降り、マンションのエントランスに飾ってある笹に結びつけた。
今日からは新しい俺だ。
雪に対して恥ずかしくない俺になるように。努力していこうと思う。
雪に出会ってから。
神の存在を信じたくなるような不思議なことが時々起こる。
それが俺は嫌いじゃない。
想定できることしか起こらない人生なんてつまらない。
ハラハラしたりドキドキしたり。
それを何のこともなく受け入れられる。
だって、俺には雪が必要だから。
雪と一緒に生きていくんだから。
雪を俺のものにしておくには、それぐらいの度量が必要なんだ。
そう覚悟を決めている。
2014 0707 古代君誕生日祭企画 マユコ
―1―
俺はふらりと家を出た。行く当てはない。
手には雪が残した走り書きのようなメモ。
『出かけます。朝ごはん、食べてね』
出かけます、だって?
昨夜何時に帰宅したかもわからない。
それなのに、出かけます?
他に書くことがあるだろうと思う。
今日は特別な日なのに。
一緒に祝いたい、とか嬉しがらせておいてそれはない。
かなり無理なスケジュール調整をした。やっとの思いでこの日は家に居られるようにしたのに。雪にはそれがわかっているんだろうか。
「あなたが家にいないと寂しいの」
たまに睦言でしおらしくそんなことを口にするけど。
それを真に受けて「ごめん」と心の中でいつも詫びていたけど。
あれは嘘だ。嘘に違いない。
じゃなければ、最近の雪の行動は全くもって理解できない。
彼女はただでさえ忙しい。
連邦政府の外務省に出向して、文字通り、世界中飛び回っている。
寂しいとか言うが、自分だってほとんど家にはいないだろう。
彼女の能力を、家庭なんて枠のなかに閉じ込めちゃいけないのはわかっている。
十分理解を示しているつもりだ。
だが、仕事以外に何でも引き受けてくる、あれはどうにかならないのか。
新型の全方位レーダーの開発?
そんなチームに入って、プライベートな時間を削る必要がどこにある?
さらには中国語の習得とか。
既に数か国語を操れる彼女に、さらに中国語が装備されたらどうなるんだ。
主にヨーロッパ方面だけだった仕事が、中国の分も入ってくることになるんじゃないのか。
そんなことになったら、彼女の足はますます我が家から遠のく。
つまり。
俺との生活はどうでもいいってことなんだ。
腹が立つ。
俺はこんなにも雪を必要としているのに。
雪のいない家は嫌なんだ。
一分だって居たくない。
俺は住宅街の中にポツンと設置されている小さな児童公園に入っていった。
ちょうどいい。公園には誰もいない。
ベンチに腰掛けようと歩を向けた時。
突然足元が空っぽになって、体が宙に浮いた。
次には重力によって落下が始まる。
マジかよ。
俺は抵抗もできずに落ちていく。
一体どこまで行くんだ?
急に恐怖が襲ってくる。
俺はぎゅっと目をつぶった。
―2―
落下が止まった。
おそるおそる目を開けると、俺はなぜかベンチに腰かけていた。
何だったんだ?今のは。
自分の体を見回すが、何の異常もない。
どこも打ち付けていないし、けがもしていない。
不思議に思いながら辺りを見回す。
さっきの公園ではない。
この木々の香り。
ここは地下都市の中の公園なんかじゃない。
ああ。俺はこの場所を知っている。
しばらくぼんやりと風景を見ていた。
池がある。
池の周囲には鬱蒼とした森。
鳴き声がした。見ると水辺に鳥がいる。
あれはヤマシギだ。
そしてここは・・・
お不動池の緑地だ!
子どもの頃、自転車を漕いで、友だちとよく遊びに来た場所。
あ、誰かいる。
小さい子。
金色のショートヘアが柔らかく風に揺れている。
ショートパンツを履いていて、一見男の子のようではあるが。
子ども時代に出会った雪を男の子だと勘違いした前科があるからな。
俺は慎重になって、その子どもの姿をよく見る。
そして思った。
子どもの頃出会った雪もあんな感じだった。
というか、雪じゃないのか!あの子。
俺はベンチから立ち上がり、ゆっくりとその子の方に歩いて行った。
雪はしゃがみ込んでじっと池を見ていた。
ものすごく集中し、ものすごく真剣な顔をして。
何分もずっとそのままで微動だにしない。
あまりにも動かないので、俺はとうとう雪に声をかけた。
「何してるの?」
雪は池を見たまま答えない。
聞こえなかったのかな。
俺は少し大きな声でもう一度言った。
「何してるの?」
「しーずかにっ!」
雪はこちらを見もしないで言った。よく聞く叱り口調。まんま今の雪の雰囲気だ。
この頃からこんなだったか。
俺はやれやれと首を振った。
しばらく雪の斜め後ろに腰かけていた。
雪はとうとう諦めたのだろう。
ため息をついて、その場に座り込んだ。
「何してたの?」
今度は振り向いて雪が俺を見た。
しばらくじーっと見ている。
「おにいちゃんがきたから、かっぱさんにげちゃった」
「へ?河童?」
「ゆき、かっぱさんにあいたくて、まっていたの」
「河童?」
俺は大笑いした。河童に会いたいって。
雪ってこんなぶっ飛んだ子どもだったのか。
しばらく笑い転げてから見ると、雪が涙ぐんでいた。
「どうしてわらうの?」
「だってさ、河童なんて・・・」
いないんだよ、と言おうとして止めた。
雪があまりにも真剣な顔をしていたから。言ってはいけないような気持ちになった。
「おじいちゃまが、ここでみたことあるって。かっぱさんはいいこのところにしか、でてこないんだって。ゆきはいいこだから、ここでまっていたの」
「河童に会ってどうするつもりだったの?」
俺は笑うのを止めて、真顔で雪に尋ねた。
「いいこにしていたら、パパがすぐにむかえにくるっていったの。でも、パパずっとこないの。ゆきがいいこじゃないから?かっぱさんにきこうとおもったの」
何となく事情が呑み込めた。
雪のお父さんは外務関係の仕事をしていたと聞く。
どこかに赴任して、現地で家族を迎え入れる準備でもしているんだろう。
雪は祖父のところに一時的に預けられているんじゃないか。
「お父さんに会いたいのか?」
「うん」
「お父さんは君のことを忘れているわけじゃないよ。いつも大事に思ってる、絶対に。だけど、まだ君を迎えに来られない事情があるんだ。もう少し待ってあげて」
「ゆき、いいこじゃないのかな。だからかっぱさんもでてこないの?」
雪の目から涙がこぼれた。
俺は頭をそっと撫でながら言った。
「河童はいい子のところにしか出てこない。でもね、いい子だからと言って、全員が河童に会えるとは限らないんだ。わかるかな?」
雪はしばらく考え込んでいた。
「かっぱさんはどうやってえらんでいるの?このこのところにでていこうって、どうやってきめているの?」
「河童は気まぐれなんだよ。気が向いたら出て来るし、その気がなければ出てこない。会えるかどうかは運なんだ。会えなかったからと言って、君が悪い子だとか、そういうことはないんだよ」
雪はうん、と頷いた。
気持ちがおさまったようだった。

イラストby牡丹
何かが飛んできた。
俺は雪と一緒に飛んできたものに注目する。
ギンヤンマだった。
綺麗な水色が煌めいて、光の筋を残す。
雪はそばにあった虫網を持って立ち上がる。
そして、ギンヤンマを追って虫網を振り回し始めた。
幼い。
そんなことじゃギンヤンマを捕まえることはできない。
でも一生懸命な姿が不意に愛おしく思えた。
そうだ。雪はこんな子だ。
いつも一生懸命。
そんな雪を好きになったんじゃないか、俺は。
思わず笑みが浮かんでくる。
「貸してごらん」
さっぱり捕まえられなくて、もう無理だと思っていたのだろう。
雪は虫網をあっさりと俺に手渡した。
ギンヤンマを捕まえるにはコツがある。
後から追っても無理だ。かと言って前からいっても、巧妙に網をかわしていく。
まずは観察して、縄張りの範囲を見定める。
縄張りの外れまで行くと、ギンヤンマはそこで一瞬ホバーリングし、向きを変える。
その一瞬の隙がチャンスだ。
いともたやすくギンヤンマを捕獲した俺に、雪は心酔したような目を向ける。
「おにいちゃん、すごい」
翅をつかんでギンヤンマを持ち、雪に見せてやる。
雪は目をキラキラさせて、ギンヤンマに見入った。
「これ、どうする?虫かごに入れる?」
雪は首を横に振った。
「とんでいるときがいちばんきれい。だから、にがしてあげて」
「わかった」
俺はギンヤンマを放す。
自由になったギンヤンマは、池の方へと飛んでいった。
「カメさん」
今度は池の石の上で甲羅干しをしている亀を見つけたようだ。
全く好奇心の塊のような子どもだ。
池にせり出し、ウッドデッキが設置されている。デッキには、水上で憩えるように、ベンチも置いてある。
雪はそのデッキの端まで走って行って、亀に手を伸ばした。
「落ちるぞ」
何を隠そう、俺も同じことをやって落ちたことがある。
水深は大してない。
だが。
雪がバランスを崩すのが見えた。
あのままだと頭から落ちる。
俺は駆け寄って雪を抱き上げた。
代わりに俺がバランスを崩す。
雪を抱いたまま。
ドッボーン。
俺は見事に池に落ちた。幸いなことに足から。
水しぶきを浴びる。
膝まで水につかったが、どうということはない。
雪も俺も無事だ。
咄嗟にしがみついてきた小さな雪を、俺は柔らかく抱きしめる。
しっくりくる感触。
じわじわと満ちる感動が体からあふれ出していきそうだった。
「雪ーっ」
名前を呼ぶ声がする。
振り返ると、緑地の入り口に初老の男性が立っているのが見えた。
「おじいちゃま」
腕の中で雪が言う。
俺は雪をデッキに降ろしてやった。
「おじいちゃまー」
まっしぐらに駆けて行った雪を抱き上げた男性が、ゆっくりと歩いてくる。
自力でウッドデッキによじ登り足元を見ると、デニムの裾とスニーカーがびしょ濡れだった。
「申し訳ない。孫を助けてもらいましたか?」
雪の祖父とおぼしきその男性は、雪を抱いたまま、丁寧に頭を下げた。
「ありがとう。おかげで孫は無事だったようだ。感謝します」
続けて男性は孫娘をやんわりと叱る。
「雪、ひとりでここに来てはいけないと言ったはずだよ」
「ごめんなさい、おじいちゃま」
雪は祖父の肩に頬をつけて甘えている。
そんな雪を大事そうに見つめる祖父の目が印象的だった。
「思い込んだらわき目もふらず飛び込んでいくのが厄介でね」
祖父は苦笑しながら俺を見る。
雪に似た綺麗な瞳の男性だった。
「根は悪い子じゃない。可愛がってくれたら嬉しい」
そう言うと、祖父は雪を抱きかかえてゆっくりと歩き、帰っていった。
「可愛がってくれたら?」
どういうことだ?訝しんでいると、雪が駆け戻ってきた。
「おにいちゃん、ごめんね」
雪は俺の足元を見た。
「ゆきがおとなだったら、おにいちゃんのデニムもくつもあらってあげるのに」
それだけ言うと雪は走って行った。
出口で待っている男性に「おじいちゃま」と飛びつく。
そしてふたりは手をつなぎ、去って行った。
あんな祖父がいたんだ。
雪を慈しみ、愛している家族に会えて、俺は嬉しい。
雪を大切にしよう。そう思う。
姿が見えなくなるまで、俺はふたりを見送った。
―3―
目を開けた。
はっと起き上がって辺りを見回す。
ここは?
お不動池の緑地ではなかった。
さっきの人けのない児童公園。
その一角に設置されたベンチの上で、俺は眠っていたようだった。
「夢、だったのか」
ひとりごちる。
夢にしては妙に生々しく感じられるが。
俺は足元を見た。
デニムの裾とスニーカーが濡れていた。
「!」
やはり俺は池に落ちたのだろうか。
家に戻ると、雪がいた。
「どこに行っていたの?」
聞きながら、俺の足元を見る。
「どうしたの?濡れてるじゃない」
「いや、ちょっと」
「脱いで。洗ってあげるから。ついでにお風呂に入ったら?」
俺は雪の言うがままだ。
さっきものすごく不機嫌になって家を出たことなんか、どうでもよくなっていた。
風呂から出て、俺は寝室に入った。
服を取り出すついでに、一年前に俺たちの宝物になった短冊を捜す。
あった。雪が用意した綺麗な小箱の中。
今日は七夕だ。ちょうどいい。
これを持ち出して、雪と語り合おう。
短冊を見る。
小さな雪のつたない字。
これを書いたときも、彼女は一生懸命だった。
あのとき俺に向けてくれた思いも真っ直ぐだったんだろう。
「思い込んだらわき目もふらず飛び込んでいくのが厄介でね」
男性の言葉がよみがえる。
考えてみれば、雪にロックオンされたのが俺でよかった。
彼女の思いが他の男に向いていて、それを指をくわえて眺めているしかない人生じゃなくて本当によかった。
短冊を持って寝室を出た。
雪を捜す。姿が見えない。
と思ったら、ベランダにいるのが見えた。
短冊を居間のテーブルに置いて、俺もベランダに行く。
雪はタライに水を張って、俺のスニーカーを洗っていた。
雪の頭上には、洗濯したてのデニムが干されていた。
「ごめん。ありがとう」
雪は手を動かしながら俺を見上げた。
「どうしたの?すごく水を吸っていたよ、これ」
「ああ、池に落ちた」
「池?どこの?」
雪は目を見開く。
俺は笑ってごまかす。
「まさか、貯水池まで行ったの?ずいぶん遠くまで行ったのね」
雪が勝手に合点してくれたので、そのままにしておいた。
雪は洗い終えたスニーカーを竿にひっかける。あとは乾くのを待つだけだ。
「悪いね、忙しいのに」
雪は柔らかく笑う。
「いいのよ。私はもう大人だから。好きな人のデニムも靴も洗ってあげられるの」
「え?」
どこかで聞いたようなセリフだ。
「私ね、夢だったの。好きな人の洋服や靴を洗ってあげるのが」
雪はタライを片づけて、部屋に入っていった。
食卓には昼食が並んでいる。
雪はキッチンとテーブルをせわしなく行き来している。
コンロには大きなセイロが湯気を立てていた。
テーブルを見ると、やけに品数が多い。
「どうしたの、これ」
雪はふふっと笑った。
「だってお誕生日でしょ?あなたの」
「あ、そういうこと」
よく見ると、点心が何種類も並んでいる。
その中に、大根餅があった。
「お、大根餅」
「おばあちゃんが作ってくれる大根餅が好きだったって言ってたでしょ?もう一度食べたいって。だからがんばったの」
「え?」
「おばあちゃんが中華街から材料を買ってきて、って言ってたから、中華ソーセージか干しエビがミソだと思ったの。それで名人さんのところに習いに行こうと思って」
雪はパタパタと走ってセイロのふたを開け、翡翠ギョーザを取り出す。
続いて、海鮮っぽいシューマイを入れてふたをした。
「これも、皮から全部手作りしたのよ」
雪は綺麗な翡翠色のギョーザを食卓に運んだ。
「教えていただいたラオナイナイが中国語しか話せない方だったの。だから、ついでだし、中国語を学んで、料理にもチャレンジよ」
「そうだったのか。言ってくれればよかったのに」
俺は少し申し訳ない気持ちになった。
雪は俺を大事にしていないだなんて拗ねて、子どもみたいじゃないか。恥ずかしい。
「サプライズ、したかったの。だって、去年の私の誕生日、嬉しかったんだもの」
サプライズ?雪の誕生日?
思い出して、思わず赤面した。
ちょっと俺らしからぬことをやってしまって。
でも雪がすごく喜んで、その日はもう・・・
素晴らしく従順に俺の言うことを聞いて、ただひたすら可愛かったあの夜の雪を思い出す。
やばい。まだ真昼間だ。
「これだけ作るのに、ここのキッチンじゃ足りなくて。ラオナイナイの厨房をお借りしたの。今度、一緒に行きましょ?」
「わかった。でもまずは雪が作ってくれたものをいただかないと」
「そうね、お昼にしましょう」
大根餅。
これが一番おいしかった。
おばあちゃんが作ってくれたものと、本当によく似た味だった。
簡単に説明しただけなのに。
雪は俺が何の気なしに話したことも、よく覚えてくれている。
それがわかったことが、一番嬉しかったかもしれない。
「本当はね、旧正月に作るものなんですって。ラオナイナイが、今頃大根餅?っておっしゃったけど、お願いしたの。お誕生日のプレゼントにしたいからって」
「そうか。ありがとう」
「おばあちゃんの味とは少し違うよね?」
「うん、まあ」
「これから何度も作って我が家の味を作っていくわね」
「ありがとう。雪」
俺は反省した。
今日23歳になった。
雪の大らかさに包まれているだけで、俺は雪に何も返していないんじゃないか。
ただ甘えて、拗ねて。その繰り返しだ。
だから。
俺は短冊に書く。これは本来、子どもがすることだから、今年書くのが人生最後の短冊だ。
「大人になる」
それを持って俺はエレベーターを降り、マンションのエントランスに飾ってある笹に結びつけた。
今日からは新しい俺だ。
雪に対して恥ずかしくない俺になるように。努力していこうと思う。
雪に出会ってから。
神の存在を信じたくなるような不思議なことが時々起こる。
それが俺は嫌いじゃない。
想定できることしか起こらない人生なんてつまらない。
ハラハラしたりドキドキしたり。
それを何のこともなく受け入れられる。
だって、俺には雪が必要だから。
雪と一緒に生きていくんだから。
雪を俺のものにしておくには、それぐらいの度量が必要なんだ。
そう覚悟を決めている。
2014 0707 古代君誕生日祭企画 マユコ
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プロフィール

管理人 ひがしのひとみ
ヤマト2199に30数年ぶりにド嵌りしました。ほとんど古代くんと雪のSSです
こちらは宇宙戦艦ヤマト2199のファンサイトです。関係各社さまとは一切関係ございません。扱っているものはすべて個人の妄想による二次作品です。この意味がご理解いただける方のみ、お楽しみください。
また当サイトにある作品は、頂いたものも含めてすべて持ち出し禁止です。
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