彼らの装着しているものから、恐らくメ号作戦帰りなのだろうと雪は推測した。
髪の長い青年が振り返る前だ。すれ違った時に、フッと鼻腔をくすぐったのだ。
異質なもの。形容しがたい、今までに感じたことのない何かの正体を、雪はわずか数秒の間に
無意識に導き出そうとしていた。
南部の”秘密を共有したがっているような”噂話よりも意識はそちらに向けたかったのかもしれない。

振り返りたい衝動に駆られた雪よりも少し早く、彼が振り返っていた。
南部の腕を取り、メ号作戦のウラについて問いただしてきたのだ。
青年は、最初は雪にまるで興味がないとでも言わんばかりに、こちらに視線を向けることはなかった。
雪は、仔犬のようにクンクンと小さな鼻を鳴らす。
匂いの元は、明らかにこの青年だった。奥にたたずむもう一人の青年からは感じられなかった。
「ちょっと、何なの? あなたたち」
自分の行動は、彼らに変に思われていないだろうかと、雪はそこで初めて気が付いた。
恥ずかしさを打ち消すように、青年に近づき、彼と同等に失礼な態度を取った。
彼の鼻先に、人差し指を突きつけたのだ。
彼に近づくことで、思いは確信に変わっていく。
(嫌じゃない)

不躾な視線を投げてくる輩を、雪は、当然好ましくは思っていない。
この時に会った青年は、初めて会ったにも関わらず、他の男どもと同じように、驚いたように
目を見開き、雪を凝視したのだ。
記憶を失う前はどうだったか覚えていないが、きっとこれは本能なのだろう。
雪は自分の直感を、信じている。
この青年は、他の男とは違う、と思えたのだった。

「沖田提督なら、傷の手当てで病院です」
青年の問いに、雪は端的に答えた。きりりと表情を引き締めて。
雪に気圧されて、青年はそれ以上雪たちに問うことを、しなかった。
非礼を詫びることも、感謝を表す言葉もなかった。
しかし、雪は(嫌じゃない)と心の中で呟き続けている。
南部が、バツの悪そうな顔を雪に向け、雪の態度を和まそうとしているのがわかったが
それに付き合いたくもなかった。

エレベーターが昇っていく間に、すっかり元に戻らなければと思いつつ
彼の匂いの記憶を、必死で手繰り寄せようとしている。

それは単なる思い付きでもあったが。
「南部君、軍の寮に住む男の人って、皆支給品の消耗品しか使わないの?」
いきなり脈略のない話を振られて、一瞬戸惑った南部だが、彼女の機嫌が直るならと
その質問に笑顔で答える。
「消耗品にもよるよ。たとえばどんなもの?」
「んー、そうねえ。たとえば、シャンプーとか? ボディーシャンプーとか。僻地に出張中なら
支給品よね?」
「さあなあ。僕は遠方勤務はしたことがないけど、僻地じゃそうじゃないかな。寮住みなら、
男だって、自分で買い物するんじゃないかな」

青年がウズメ要員だったなら、火星にシャワーなんて施設はないだろうし、ならば、あれは
彼そのものの匂いなのだろうか。
妙に惹きつけられる。雪はその匂いを思い出したくて、ついクンクンと鼻を利かせた。

「あっ、僕、なんか臭い?? 昨日ガーリックたっぷり使ったパスタ食ったからさ……」
雪の普段では見せない行動に、南部は咄嗟に自分が原因かと疑った。
南部の狼狽えぶりに「違うわ。南部君じゃない」と雪はクールに答えた。
「ああ、じゃあ、さっきの奴らじゃないか? 」
南部は自分の事ではないとわかると、あからさまに、ほっとして答える。
エレベーターにも残り香があるのかもしれない。
雪はそれを探したくなったが、南部が怪訝そうな顔を自分に向けたので、かろうじて思いとどまった。
「何でもないの。気にしないでね」
嗅覚とは、他のどの五感より記憶を呼び覚ますらしい。
匂いの情報を処理する場所と、記憶や感情を司る場所が同じ大脳辺縁系なので、『匂いによって記憶や感情が呼び覚まされる』と聞いたことがあった。
記憶障害を背負っている自分は、アロマテラピーを使った民間療法を試したこともある。
目的の階に到着すると、雪は自然と深呼吸を繰り返す。

自分が動き出そうとしていることを、雪はこの時、密かに期待していたかもしれなかった。



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